アイコン日本の音楽と舞踊の魅力を探る Vol.4

レクチュア「いきの美」その2

  講師 池田弘一


池田   本居宣長、江戸時代の国文学者。この人は二十三歳のときに、煙草と喫煙に関する随筆を書いているんですね。「おもいぐさ」というのがある。
いろんなことを書いてあるんですけど、一つだけ申し上げると、「捨てたるに、なお立ち昇る煙は、みなみないとうわざなり」
煙草を捨てたけどまだモクモク出る煙の臭さ、これは誰もが嫌うものである。煙草を召し上がる方もおいでかと思いますが、消すときはちゃんと丁寧に消していただきたい。
鮨屋さんなんか行くじゃないですか、カウンターにね。隣で煙草を吸う人がいる。灰皿がおいて在るんだから、吸うなとは言えないじゃないですか。灰皿に煙草を置いて、片手でビールなんか飲むんですね。そうすると、灰皿のところから煙がす〜っとね。こういうときの煙草の煙は臭いですね、特別に。あれをやっちゃあ、野暮なんです。臭いからあんた消しなさいよ、とはどこの店でも言えないじゃないですか。だから、煙草を召し上がる方は、吸わない人以上に、身ぎれいに、こぎれいにいかないといけないじゃないんですか。
明日小唄を聞きに行くんです。新作の小唄でこういう唄です。
「遊び上手で気前が良くて、おつな小唄が憎らしい。男気つつむ渋めの着物。女心がほの字に揺れる。粋と言うのはそういう人よ」
いい文句でしょ。ところがこれで終わりじゃない。それが面白くないんですけどね。後に何が書いてあるかって言うと「口だけ達者な野暮な人」って書いてある。この小唄の題が「野暮な人」っていうの。なんか、私に突きつけたような、ねえ。前のところはいいでしょ。女心がほの字に揺れる、粋と言うのはそういう人よ、というのは僕のことじゃないんですね。全くよその人なんで、私のように人を惑わすようなことを喋ってる奴は、口だけ達者な野暮な人、野暮な標本見せにここに出てきたようなことになるんです。
さて、もう少し「粋」と言うものについて考えてみます。
日本の伝統的美意識の一つであることは間違いございませんね。
平安時代だったら「あはれ」とか「おかし」とか、
中世に入ると「艶」「幽玄」「憂し」江戸に入ってくると、芭蕉の「わび」「さび」こういうのもみんな美意識のひとつに違いない。いきはいきだ。生き生きと生きる庶民の生活と結びついた、美意識だろうと思います。尤もその庶民とは日本中の国民全部じゃあないんです。限られた人、これから先のことあれこれ言うと差別とか言う問題に触れますから言いませんが、やっぱり江戸の町の、・・言い始めましたね・・生活的にも経済的にもあるところまでいっている人たちの、理想のような気がいたしますね。理想ですから、実現は難しいんです。簡単に実現できちゃうと、これは理想じゃなくなっちゃう。だからどここの学校でも、理想なんてのは校訓に掲げたり、校歌にでてくるんですね。いくら歌ったってそこまで行かないんですから、安心して歌っていいんです。理想であって、実現は難しい。実際には、自分が「いき」であり続けることはまず出来ない。助六だってそうですよ。生涯ずぅっと助六が粋でいられると思いますか。そのうち鼻水出したり、助六じじいとかね、どっかの道でちょいとこけたりなんかもします。だから私は「いき」というのは瞬間の美、一瞬の美であると思います。持続出来ない、だけどそれには憧れる。だから、舞台、音曲の世界にその象徴的なもとを結実させる、これが「助六」であったり、「深川八景」の踊りであったりするんだろうと思います。
それを追っかけて楽しむのもいいんだけど、我々やっぱりこの娑婆で生きてる間には、我々の生活にとってお一人お一人にとって、これから「いき」というものがどういうものであったらいいのかなあ、或いは、若い人たちにも理解していただけるのかなあ、と思うとあんまりむずかしい大げさなことではない。まず、言葉、持ってる言葉の財産を増やした方がいい。


      花柳園喜輔「助六」の舞台

池田 ほら、よく温泉地をタレントがぐるぐる回ったり、食べ物を食べる番組あるでしょ。いうことがだめ。「新鮮ね」新鮮が嬉しかったら、海に飛び込んで鯨にかじりつけ。「この食感」「ジューシーね」だいたいこの三つがあると最高で、みんないっぱひとからげでしょ。食べ物を食べるんだったら、その時その場で、それを表現する単語はもっと沢山あるんだから、もっと言葉をね。言葉使いっていやあ、挨拶は自分の方から先にしろってんです。助六は「ひえもんです、ごめんなせえ、ごめんなせえ」って入ってくる。ひえもんですっていうのは、もともとお湯やさんで、ざくろ口を入る時、自分の体が冷えてますよ、って先に湯船に浸かってる人に対して跳ねを上げたりしちゃいけないから、その時「ひえもんです、ごめんなせえ」と入るわけなんです。助六は舞台に入ってくるとき「ひえもんです」っていうわけです。
我々だって、表で「ひえもんです」なんて言ったらこの野郎なんだ?ってなことになるから言わない方がいいけど、「おはよう」「こんにちわ」学生からいわなくたって教員が先に言やあいいんですよ。平が、言わなくたって課長が先に「おはよう」って言やあいいんですよ。そうすりゃあ、物事、世の中が比較的「野暮」より「いき」にちょいと近づく。
「野暮はもまれて粋(すい)となる」さっき置唄にありましたね。だから、もまれなきゃ駄目なんです。やっぱり訓練。そうしてくると、洗練されるから、あまりべとべとしない、ねちねちしない、さっぱりする。もっと粋(いき)だと言われるためには、何か出来なきゃいけませんよ。何か。それは何かは一人ひとりが考えて一人ひとりがいいと思うことをやればいいんです。
私・・年をとるととかくてめえのこと言うんです。てめえの周囲のこと言っちゃいますけど、朝は早く起きるんです。これ、動物ですから。だから明るくなったら起きて、暗くなったら寝るんです。別に電気がもったいないてことじゃなくて、動物なんだから、朝早く起きて・・動物はお風呂に入んないけど、私はそこんとこだけ人間になって・・で、何で入るかって言うと、洗おうと言う了見じゃあない。洗うったってこの年になってどう洗ったって、見せようもないでしょ。だから、鼻の穴をこうやって、喉をうがいをするんです。そして、カラスを鳴いて、牛を鳴いて、鯛の目玉を食うんです。カラスは高い声でしょ。牛は低い声でしょ。で、年をとるとどんどん歯切れが悪くなる。若い頃はもっと歯切れが良かった、啖呵も切れた。それがもう、もぞもぞしちゃって。それを最小限度に押さえるために、朝、鼻の通りを良くして「カァ〜」これを十一回鳴くんです。私十一が好きなんで。それで「モォ~」と低い声を出すんです。これで喉が痛いようじゃあいけないんです。発声が悪いんです。それから、真鯛の目玉のまわりに肉がついてる、鯛の眼肉。あれはうまい。だけど一年に一回は食べられない。三年に一回くらいしか食えない。だから憧れの念を持って「鯛の目、鯛の目、鯛の目・・・・・」とやるんです。そうすると、少し、これ、お土産だと思って申し上げてるんです。お家でなさって頂きたい。でも、そうすると、近所でおかしいと、おっしゃるでしょ。でも、それを言っちゃあおしまいですよ。だって、お隣の人のために生きてるんですか。お隣の人のことばかり考えないで、自分が指折り数えてみればあと五百年とか六百年とか、それ生きるについて、声が前に出た方がいいですよ。人に文句をいうんだって、イヌネコを脅かすんだって、声が前に出なきゃダメです。


       講義中の池田弘一

池田 粋な話にならないですね。しかし、粋と言うのは、もう一回申し上げると、一瞬の輝きであり、常に、その時その時で変わっていくもんで、かつてこうだったから、これが「いき」なんだから、そのまんま守り続けようってものじゃないと思うんですね。
で、私が理想としている人は誰かというと、大変古めかしいけど、中国の孔子様ですね。遊びの話をしていて、孔子様が出てくるとは思わないですよね。物ってのは、話ってのは意表をつかなきゃダメなんですよ。次はこういうのが出てくるだろうなあと思っている。そのとおりやっちゃあ。私だって教員五十年やってるんですから。毎日同じ話をしない、と言うのをモットーにしてるんです。そんなことモットーにしなくったっていいんですけどね。つまり、毎日言うことがいい加減だってことなんです。
孔子様は十五にして学に志し、私は学に志さなかった。三十にして立つ、私は自立もしない。四十にして惑わず、惑ってる。どころが一番おしまいに、七十にして己の欲するところに従いて矩を越えず、とおっしゃってる。七十を過ぎたら自分のやりたいように、やりたいことやって、しかも世間様に迷惑をかけなければ、もちろん法律にふれるようなこともない。私も、もう後二十~三十年もすると七十になりますから、心がけてるんですよ。自分のやりたいように、遠慮ばっかりするんじゃない、我慢ばっかりするんじゃない、やりたいようにやって、尚かつそれが人様の迷惑にもならなきゃ、悪いところにも抵触しない。それが、僕は、私にとって将来にかかってる「いき」であると、私は思うのであります。幸いここに時計がないので、かまわず話を続けていきます。
「深川八景」を今度は観ていただく。八景と言うのはご承知のように、中国の洞庭湖に注ぐ二本の川の周辺に、八つの、南画の墨絵の画題になる大変結構な景色の良い所があるんだそうですね。これを瀟湘八景というんですが、これが禅宗とともに日本に入ってきて、例の近江八景、近く言うと神奈川県の金沢八景、ま、一種の観光スポットと言ういような感じで出てくる。それが、音曲の世界の方にも影響を与えまして、歌が出来て、三味線音楽ができ、品川八景、深川八景、巽八景、両国八景、根岸八景、吉原八景、廓八景、くぜつ八景、吾妻八景、もっと沢山ある。その中の一つ「深川八景」にはどんな八景が入っているかってちょっと申し上げると、「入りくる帰帆の数々に」帆掛け舟が戻ってくる帰帆、袖ヶ浦の帰帆ってのが一つ、「一の鳥居のは夕照は」一の鳥居と言うのは、深川の富岡八幡宮の鳥居、そのあたりから見た夕映え、夕照、ゆうてらす、ですね。それから、永代寺の晩鐘。永代寺というのは、明治以降、廃仏毀釈でもって、今はなくなっちまいましたけど、富岡八幡様の別当寺、今の深川のお不動様、お不動様の脇が広くず〜っと公園になってますが、そこにおいでになりますと、ここに永代寺があったんだ、っていう石碑なんかが建っております。
それから「冬の木場には雁落ちて」と言いますから、落雁、「月まどかには塩浜の」と言うところで、秋の月、「富士をいただく明日の夜は、佃の雨に千鳥鳴く」これで佃の夜の雨。富士ってのは、昭和三十年代まで、深川の富岡八幡様の社殿のそばに、人工の、人造の富士山が、これ江戸中に、東京中に沢山あった、その中の一つが在った、それを言ってるんですね。それから、二軒茶屋と言うのは、八幡様の境内の中に、結構なお料理屋さんがあった、二軒。松本っていうのと、伊勢屋って言うんだそうです。また川柳があります。「二軒茶屋 肝をつぶして払いをし」お勘定が高いんですね、きっと。「え〜!」肝をつぶすんですよ。天保十三年の改革の時に、とりつぶしになっちゃうんです。そういう贅沢な料理屋はダメだってことで。ただし、松本の方は再開いたしまして明治のいつ頃かまであったそううでございます。
「深川八景」と言う明治九年に作られた荻江の中にも二軒茶屋としてこの松本が歌われているようであります。
で、深川というところが、市街地に、人が大勢住むようになったのは、いつのころからかと言いますと、まず初めのところは、徳川家康が江戸に来て、鷹狩りに行ったんだそうですね。そこに既にもう開拓者が入っていて、あの地域を開拓していた。その開拓をしていた人が、深川八郎右衛門と言う人だそうです。で、徳川家康が開拓者のリーダーである深川さんの深川をとって、この辺を深川と言ったらよかろうということになったんだそうですね。
そして、明暦三年、例の振袖火事と言う江戸中が焼けちゃうというほどの大火事があった。その大火事のあとになってからその江戸の町を本格的に広げてゆく。富岡八幡宮別当永代寺の門前、お宮さんとお寺さんが兄弟のようにひとつになってある、その門前仲町。ここでもって、料理茶屋の名で営業許可がでて、ここに岡場所というのができた。岡場所っていうのはどういうのかって言うと、まっ、詳しく話はしない(笑)知らないから。吉原と言うのは、幕府が公に認めた遊廓、廓です。そうじゃない。幕府、奉行所、ああいうところからは正式に認められていないで、女を置いている。「はるをひさぐ」難しい言葉ですが、これが岡場所で。深川だけじゃございませんよ、品川だって、内藤新宿、そう言うところには、飯盛り女、飯の給仕人と言う名目でそういう女性を認めていたわけですね。おめこぼしっていっちゃあ、少しでかすぎるんだけど、この深川には、門前仲町、ここが中心で繁盛していて、その他十五ヵ所とも二十っ箇所ともいいます。中には四、五軒しか店がないような岡場所もあったようです。
粋な深川、いさみは神田、人の悪いは飯田町。しつこいようですが、昔のはなしです。あの飯田町には御家人が住んでいた、直参なんです。直参の流れはくんでいるんだけど、旗本と言われるような身分じゃない。生涯将軍様のお顔なんか見られないほど、下の方。この御家人崩れと言うのが、この辺に沢山住んでいた。芝居で言うと、片岡直次郎。芝居でやると、団十郎がやったりなんかするからいい男になりますが、もうチャラチャラしている男ですわな。こういう御家人崩れがいるからどうも飯田町というのは、どうも人気(じんき)が悪い。


       花柳園喜輔「深川八景」の舞台

池田 粋な深川、いさみは神田、人の悪いは飯田町、ってんですね。粋な深川、頭から深川は粋だ。どうして「いき」なんだろう。生き生きとしているから、粋なんですよ。ここで、私が興奮することもないんですが、なんたって新開地でしょ。深川って土地は、明治になるまでず~っと建設途上、です。いつもいつも新しく新しく埋め立てをしたりなんかして広げて行く、生き生きとしてるんですね。そこにもってきて、隅田川という大きな川の先ですから、徳川幕府のいわば警察圏、あんまり干渉がないんですよ。将軍様お膝元だと御朱引き内と申しまして、地図を見ると赤い線が引いてある、朱引き、この内側なんて非常に厳しいわけですよ。脱線して申し訳ないけど、吉良上野介は公家筆頭でしょ。少納言待遇なんです。だから、呉服橋見付に屋敷があった。あそこなら討ち入りなんかできっっこない。あそこへ一人か二人の奴が死ぬ気で飛び込んで行って、火をつけたと言ったら、それこそ、その頃の内閣、老中がそれこそ退職するようなことになっちゃう。だから、吉良さんは因果含められたって言うか、騙されたっていうか、本所松坂町へ、と、隅田川のこっちでしょ。警察圏が、全然違うでしょ。だから討ち入ることだって出来たんですよ。これはまあ、どっちかっていうと、負、マイナスの方の話ですが、警察圏があまり及ばない、はうるさい制約がないから文化人、芸能人、あるいは富豪、例えば紀伊国屋文左衛門とかいう大富豪が別荘を構える、又これ、木場と言うのがありますから、そこが大変流行ってくる。なんたって日銭の上がる仕事がたくさんありましたから、岡場所も繁盛していた。そこの芸者さんたちは非常に生きがよかった。意気があるだけじゃなく、張りがある。で、なんでも後で観ていただく踊りでも見えますけど、羽織を着て、羽織芸者。芸者さんでもって羽織を着てお座敷に出るのはこの深川だけだったそうですね。まだ他に横櫛のお富、例の切られ与三郎に出てくる、横櫛のお富なんかも、この深川でおおいに全盛を誇った芸者さんだったらしいですね。


「物狂い考」その1 「物狂い考」その2
「物狂い考」その3 「物狂い考」その4
「道行きの美」はじめに 「道行き考」その1 「あな妖し考」その1 「あな妖し考」その2
「いきの美」その1